都市計画道路環状3号線の学習会に参加して
「環状三号線道路と文京のまちづくりを考える」つどいが、11月22日に文京革新懇の主催で開かれた。講師は都市問題研究家の末延渥史さん、文京区議会議員の金子輝慶さんから発言がありました。
文京区内では東京都による環状三号線の伸延計画(播磨坂通りの両端を東西に伸ばす)をめぐり、「そんな計画があったの?」「そんな計画とっくになくなったと思っていた!」などの声があがっています。
2人のお話によれば、「都の道路計画は当初、1923年に関東大震災復興計画として定められたものが、戦後1946年に旧都市計画法(1919年制定)により戦災復興計画として内閣決定(戦災復興院告示第3号)し、引き継がれた。この中に環状3号線が出ている(起点:中央区勝どき2丁目、終点:江東区辰巳2丁目、延長26,700m、うち文京区内3,980m)。焼け野原の上に勝手に図面をひいたずさんなもの。まだ車中心の社会でない時代の計画である。」と。
1950年に新たな都市計画法ができた。1970年代になると、文京区の基本計画に環状三号線が出てくる。1972年の基本計画には「本区の幹線街区で特に問題となるのは環状三号線である。計画決定されたのち、完成された一部を除いて事業化の見通しは立っていない。本区の道路交通計画等を策定する場合において大きな障害となっている。この計画路線の実現は都が主体であるが、高密度の家屋が存在する地区であるので、早急に明確な結論を打つ出すべきである」と記されている。
1981年鈴木俊一都政のもとで「区部都市計画道路事業計画」策定、そして小池都政のもとで「第4次優先整備路線・特定整備路線」として引き継がれている。
文京区内では、1980年10月に文京区議会として全会一致で「廃止を求める決議」をあげ、1981年6月には文京区長が都知事に要望書を出し反対を表明している。(1980年12月に提出した要望事項がほとんど受け入れられないまま81年1月都市計画地方審議会で決定を見たのは遺憾。区が実施したアンケートで63%が反対と述べている)1986年には「小石川植物園を守る会」が9000筆の反対署名を区長に提出している。
2000年には「大深度地下の公共的使用に関する特別措置法」が成立し、国・都で道路整備を進める動きが加速する。2006年には都議会予算委員会で文京区選出の増子都議が「地下化をすると仮定した場合、この環状3号線についてはどのような課題があるか」「地上が困難だということであれば、ぜひ地下化についても前向きな調査、ご検討を」と質問。2016年6月には自民党区議が本会議で「環状3号線地中化計画が始まったことも想定し」と地下化での推進を主張した。
環状3号線道路は都の「第4次事業化計画」で「計画内容再検討路線」とされ、都は事業化の可能性を探るため整備形態を検討するとして、2019年から2021年で2,900万円を投じ事業者に地下水位調査、道路線形基本設計作業をさせ、2022年に報告書を提出させている。
都は来年度から15年間ですすめる都市計画道路に整備方針「第5次事業化計画」の中間まとめを7月に公表した。「都市計画道路の必要性の検証項目」で地域にかかわる項目を設定し地域の実情を踏まえて各区市町村で検証するとしている。
もともと、この計画は震災、戦災復興という名目で策定された道路計画であり、文京区内においては、戦後の国の決定以来、区が事業認可や手続きを行ったことがないまま推移している。戦前の旧都市計画法に基づく計画で、区民・住民に対して計画の説明会も義務付けられていなかったまま、今に至っている、計画進行は現在の区民のくらし・住環境の維持と相反するものである。住宅地、公園、学校、神社仏閣をつぶし、地域コミュニティを壊すなど甚大な被害を及ぼす道路建設を行うなど許されない。
国土交通省は道路計画見直しの方針をもっている(民主党政権時作成し現在も生きている)。これに沿って道路計画を廃止にしている府県も多いが東京都は見直しが進んでいない。
戦前、戦後直後に策定した計画は今も有効なのか、復興を目的とした道路計画は現在の社会に必要なのか問われている。 文京区は、区民の声を東京都に届け働きかけて、環状3号線道路の伸延計画の廃止のために区民と力をあわせてほしい。
関水後援会 S

