ウトロで教えられた
「大人の修学旅行」でウトロ地区を訪問した。戦時中、日本政府がすすめた京都飛行場建設に多くの朝鮮人が従事した。その方々は「国の仕事だから徴用に取られない」「住む権利がある」と言われ、過酷な労働に従事し、やがて日本の敗戦で工事が中断されると、使い捨て同然にその場に放置された。
戦後、その飯場跡を開拓し、ウトロを第二の故郷として互いに助け合いながら、根をおろして生きてきた。水害や裁判などの多くの困難に対しても怯むことなくたたかい、日本そして韓国の人々や韓国政府をも動かし、地権者の妨害をはねのけて土地購入にこぎつけた。1986年水道敷設運動が起こり1988年に初めて一部の世帯に水道が引かれ、その中で下水道の問題も全面解決に向かった。
今、ウトロ地区には公営のアパートが二棟立ち並び、前には陸上自衛隊の大久保駐屯地があり、隣にウトロ会館が立派にあり、子どもたちが遊ぶ姿が見られるが、そこで聞いた一言、「何でも、日本人は出来ない言い訳を考えるが、そこが大きく違う」と言われて、納得した。
関水後援会 松永光明
※ウトロ:宇治の入口(宇土(うと)口(ぐち)) 1940年から日本政府が推進した「京都(宇治)飛行場建設」に集められた朝鮮人労働者たちの飯場跡に形成された集落。
