小柳しげる

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小柳しげる

小柳しげるKoyayanagi Shigeru

小柳しげるの歩んできた道 ~怪獣、本、芝居、そして3.11から政治家の道へ~

【主な経歴】

1972年7月18日 台東区浅草に生まれる
79年 台東区立田原小学校入学
    怪獣と本が大好きだった少年時代
85年 台東区立蔵前中学校入学
    活字中毒が加速するいっぽう、演劇鑑賞にハマる
88年 都立忍岡高校入学
    演劇部に入部、役者だけでなく演出も経験
93年 法政大学経済学部経済学科入学
    歌舞伎研究会と能楽研究会に所属。
97年4月
舞台への思いが募り、文学座研究所研究生(37期生)となり翌年3月卒業
三省堂書店本店の書店員となる(アルバイト、契約社員)
2012年12月
青年ユニオン加盟 
執行委員として脱原発、反貧困のたたかいや団体交渉に執行委員として参加
2014年7月
日本共産党に入党台東区長選に立候補。その後日本共産党都議団事務局員。これまでに区長選、都議補選、2回の都議選(すべて台東区)の候補者を経験

ご挨拶

小柳しげる

決意、姿勢、入党の動機など政治家としての原点
かなざき文子区議からバトンタッチ!

 こんにちは 小柳しげるです。
 わたしは日本共産党の都議団事務局で仕事をしていました。
 その中で、住民福祉の増進という自治体本来の仕事を投げうった大型開発最優先の小池都政に真っ向から対抗し、都民のくらし優先に変えるべく、全力でたたかってきました。
 この板橋区も都政とまったく同じです。区民の大切な税金をため込み、大山などの大型再開発に突き進む区政を、区民のいのち・くらしを守る、まっとうな区政に転換するため、全力で頑張る決意です。

☆怪獣と本が大好きだった幼・少年期

小柳しげる
小柳しげる

1972年7月18日、台東区浅草に生まれる。
父憲一は浅草のうなぎ屋、人形町の天ぷら屋板前を経て地元浅草で母陽子とともに季節料理屋をかまえた。
浅草寺幼稚園入園。円谷怪獣のとりことなる。実は今も好き。ウルトラマンに退治されてしまうが様々な事情を持つ怪獣たちの肩を持ち続けている。善悪二元論に回収せず、常に観る人自身を省みさせ、葛藤を与える円谷プロの創作スタイルが大人になった今も自分の中に生きている。
79年、台東区立田原小学校入学
4年生で読書に目覚め、江戸川乱歩(少年探偵団シリーズ)赤川次郎、横溝正史、眉村卓を読み漁る。角川映画にも熱中。
85年、台東区立蔵前中学校入学
写真部で活動するいっぽう、活字中毒が加速。安倍公房、三島由紀夫、坂口安吾に手を伸ばす。そのころ蜷川幸雄演出の「テンペスト」、「マクベス」のほか、ミュージカル「レ・ミゼラブル」などを鑑賞し魅了され、いつか舞台に立ちたいという願望を持つようになる。

☆文学と芝居にどっぷり浸かった青年期

小柳しげる

88年、都立忍岡高校入学
演劇部に入部。動機の根底には「演劇を通じて引っ込み思案の自分を変えたい」という思いがあった。2年生で別役実の戯曲を演出、芝居づくりの難しさと面白さを知る。おりしもベルリンの壁が崩壊、10数人の仲間とともに「現代社会研究同好会」を立ち上げる。会で天安門事件、ソビエト連邦崩壊や天皇制の問題に取り組む。マルクスの入門書などを読み、中国やソ連は専制国家であり、マルクスの言う社会主義・共産主義とは違うと思うようになった。

☆出会いと発見の連続だった学生時代・卒業後

小柳しげる
小柳しげる

93年、法政大学経済学部経済学科入学。
歌舞伎研究会と能楽研究会に所属し伝統的表現方法の見識を深める。舞台への熱い思いはいっそうつのり、文学座研究所の試験を受け合格。卒業公演はエルマー・ライスの「ストリート・シーン」だった。研究所時代の忘れられない思い出は森本薫「女の一生」の夫婦役を演じた時のこと。稽古場で何度やっても演出の戌井市郎先生からOKが出ない。まったく会話になっていないとダメだしの連発。悩んだあげく稽古を抜けだし、妻役とビルの外階段で自主稽古。本来は眼線を合わせない場面なのだが、あえてお互いの目を見ながら台詞をじっくり交わしてみた。何かが掴めた気がした。相手を受けとめること、受け止めたものを返すこと。言葉のキャッチボール、リズム、間合い。これを稽古場に持ち込むと一発でOKがでた。台詞の言い回しにとらわれるのではなく相手に集中する。この体験は今に生きている。まず何よりも自分を開き相手の話を全身で受け止める。それに対して誠意をもって的確に返答することは人としての基本だからだ。もちろん政治家としても。大学卒業後しばらくはアルバイト中心の生活が続く。この間浅草ロックの芸人さんや落語立川流の噺家さんと交流。立川吉幸師匠は今も友人である。

☆3・11と組合活動で生き方が変わる

リブロ浅草店を経て三省堂書店神保町本店のアルバイトに。豊富な読書量に裏づけられた本の知識が評価され、重要な売り場を任されるようになる。ある芥川賞作家からは来店の際に必ず指名されるほどであった。
2011年2月にアルバイトから契約社員となる。その翌月11日に東日本大震災発生。津波と原発事故よるに未曽有の被災に衝撃を受ける。政府や東電の対応を見て、もう資本主義は限界に来ていると確信する。都知事選で宇都宮健児候補を応援。落選させてしまった悔しさからもっとともにたたかう仲間が欲しいと思った。同じころ雨宮処凛氏の著書で知った首都圏青年ユニオンに加入。脱原発、反貧困のたたかいや団体交渉に執行委員として参加。メンバーからは当事者でもないのにたたかいの場の門を叩いた人は珍しいと評判だった。困窮する者を放っておけない小柳しげるの人柄がここにあらわれている。
ユニオンの活動でもっとも鮮烈な経験となったのは全国展開するコーヒーショップの争議だった。当時30歳の女性社員が会社側から「店の鮮度が落ちる」という理由で一方的に解雇通告された。裁判闘争を支援し、会社側は解決金を支払い和解が成立した。しかし問題の根底には自民党が押しすすめる弱肉強食の新自由主義的政策があり、これを転換しなければ格差の拡大をはじめ、社会に蔓延する労働者を使い捨てにする働かせ方、人権侵害、女性蔑視等を根絶することはできないと痛感。この経験を機に、誰もが個として尊重され、自分の望む仕事に就き、生き生きと働くことができる、そんな社会に変革したいという思いをいっそう強くした。

☆日本共産党との出会い・政治家の道へ

選挙では“ブレない共産党”にいつも投票していた。三省堂書店の近所に「しんぶん赤旗」の販売ポストがあり、毎週日曜版を買い熱心に読んでいた。あるとき共産党員の組合員から「党を知るつどい」に誘われた。つどいでは前年の選挙で応援した吉良よし子参院議員が待っていた。吉良さんの卒論が谷崎潤一郎『少年』だったと聞き意気投合。また、安倍政権による“戦争をする国づくり”に憤りを覚えていると話すと、「あなたが入党することこそが、安倍首相が嫌がること、仲間になってほしい」と訴えられ、入党を決意。それを機に日本共産党台東地区委員会勤務員となる。翌年春には台東区長選挙に立候補し政治家として歩み始めた。その後、日本共産党都議団事務局へ移り、公営企業、都市整備、環境、建設などを担当した。新自由主義的政策の下、都も区も民営化を進めているが専門的知識と技術を持った職員が住民サービスを担うべきとの思いを強くする。これまで区長選1回、都議補選1回、都議選(ともに台東区)に2度立候補した。そして、かなざき文子区議8期32年の宝の議席を引き継ぐため、2023年4月に行われる板橋区議選に挑戦することを決意。

☆そして、今日も

小柳しげる

冒頭紹介したご両親は、日本全体を不況が覆いかぶさる中、お店をたたまざるを得なくなってしまった。商売をつぶし、生きがいや、やりがいまで奪うこの政治を変えなければならない。これが彼の政治信条の背骨になっている。
今、コロナ渦と物価高騰の影響を受け、ますます厳しい商売を余儀なくされている町場の状況が父、母の苦難と重なる。この冷たい区政を転換し、「一人ひとりのいのちと暮らしに寄り添う温かい区政をつくりましょう」と、街頭で、訪問で、全力で訴える日々