【主な経歴】
1964年荒川区生まれ。桜丘女子高校商業科、装道礼法きもの学院教授科卒。太陽信用金庫(現・城北信用金庫)勤務。神田神保町で飲食店「カラベラ小劇場」を経営、着付講師。
生い立ちと子どものころ
祖父のころから営んでいた製本屋に4人兄弟の長女として生まれました(妹2人と弟)。子どものころは母も働き長女だったこともあり、家事手伝いや姉弟の面倒を見ていました。食べ物を分ける時には母親から「平等に」と言われていた記憶があります。
信用金庫に就職したのは、商業高校だったため学校の紹介があったからです。当時は、女性は就職して2~3年で「いつになったら結婚するの?」と言われ、結婚したら退職していました。また、お茶くみをさせられたことに不快さや疑問を感じていましたが、当時は「当たり前」と思っていました。
就職してすぐくらい(18~19歳の頃)に職場の先輩に誘われて神田神保町にあるメキシコ風の飲食店「カラベラ小劇場」に行ったら、店主の人柄にほれ込み、はまってしまいました。このことが人生の大きな転機となりました。その後、店でバイトをするようになりました
バイトをしている時に茶道を習いました(表千家)。店主(のちの養母)からは「正社員になったら、5年たてばメキシコに連れて行ってあげると言われていました。23歳だった1987年に、店主たちが南米旅行に1か月南米旅行に行くことを聞き、退職して一緒に行くことにしました。直属の上司に話したら「飲食店は不安定だからよく考えなさいよ」と言われましたが、自分としては早く新しいところに行きたい気持ちでいっぱいでした。
旅行はイグアスの滝が目的でしたが、一緒にペルー、ボリビア、ブラジル、アルゼンチンの4カ国を回りました。誰も英語もスペイン語もポルトガル語も話せませんでしたが、現地の日本人ガイドがいないときは、身振り手振りで、乗り切りました。旅行後の1988年からカラベラ小劇場に勤め始めました。
お店の若い女性客から着付けを教えてほしいと店主に要望があり、店主は「自分では着れるが、教えられない」と6カ月教室に通って資格を取り、着付け教室を始めました。自分もそこで習った後、資格を取るために学校に通いました。店主のアシスタントをしていましたが、出張教室の助手となり店主が体調不良後は、講師となりました。
店の仕事はアシスタントとして二人三脚でやってきました。いろんなお客さんから、仕事やくらしの喜びや苦労を聞いてきました。この経験が視野を広げてくれたと思います。
2019年、店主から「店を任せたいので」と請われて養子縁組をするという決断をし、店を継ぐことになりました。
両親や祖父母が選挙の時になると共産党のことを話題にしていました。また、民商のお世話にもなっていました。こうした家庭環境もあり、選挙権を持ってからは自然と共産党に投票していました。
また、店の借地借家のことで、養母のころから野口つた子区議、鈴木栄一区議、福山和夫区議(当時)にも相談に乗ってもらっていました。
店を継いでまもなく、養母と実母の体調が悪化し、介護することになりました。養母はその後施設に入所。実母については、コロナで店が開けなくなったこともあり、食事や病院への付き添いなどをするようになり現在に至っています。
実母が入院した時、救急車で運ばれるさなかに救急隊員から「差額ベッドの病室しか空きがない」と告げられ、受け入れるしかありませんでした。しかし入院費が数十万円になり途方に暮れました。飯島和子区議に相談したら、「しんぶん赤旗」日曜版の記事を紹介され、了解のない差額ベッド代は払わなくてもいいことを知りました。自分でこの記事を示して病院と交渉したら、約30万円の差額ベッド代が返ってきたのです。「ものを言ったら動いた。すごい」と思いました。この時、「声を上げること、行動することがいかに大切か」に気づきました。
施設に入っても本人に会えないし、介護費用もかかります。介護タクシーを頼むのも大変です。養母の医療費、介護保険料、利用料が大きな負担です。年金と土地の賃料があるので何とかやれている状況です。しかし、自分よりも大変な人がいます。
事業復活給付金の申請書を送ってもなかなか受け付けられず、手続きに苦労しました。コロナの協力金も支給されたのはいいですが、税金でたっぷり取り返されているようで、国の姿勢は冷たいと思います。
飯島区議から入党をすすめられた時には悩みましたが、大きな影響を受けてきた養母の「グチを言うならその原因をなくせばいい」「やるかやらないかだ」との言葉にも強く背中を押されました。その後、飯島区議から「区議の後継に」との話をいただいた時も最初「ムリです。私にできると思いますか」と言いましたが、飯島区議に「できます」ときっぱり言われ、「私が原因をなくす力になりたい」と区政に挑戦する決意をしました。