山内えり

解放運動無名戦士東京23区合葬追悼会に参加しました

2021.11.07

今日は、23区いしずえ会と国民救援会東京都本部共済の解放運動無名戦士東京23区合葬追悼会に参加させていただきました。

社会の変革に尽力され、亡くなった方々を追悼し、その志を継承することを誓うもので74回目。歴史ある追悼会でした。

昨年亡くなった母は、さまざまな運動に参加していましたが、冤罪事件で

苦しむ方の支援には若い頃から取り組み、小学生だった私たち姉妹によく話してくれていました。母の志も思い返す貴重な機会となりました。

家族3人で参加し、遺族代表で父が挨拶させていただきました。

第74回解放運動無名戦士合葬追悼会 遺族のあいさつ

本日は、妻・静江が解放運動無名戦士のみなさんと共に合葬させていただくにあたり、娘たちと参加させていただき、ご挨拶の機会をいただきましたこと、大変ありがたく感じています。
妻・静江は、1956年茨城県古河市で生まれ、高校時代に民青に出会いました。高校卒業後、上京し、18歳で光陽印刷(株)入社、20歳で日本共産党に入党しました。私は、職場で妻と出会い、結婚後、44年間共に過ごすことができました。
妻は、光陽メディアでの仕事はもちろんこと、党活動、組合活動などを通じて、社会の問題に目を向け、仲間とともに学習・活動することにやりがいを感じていました。その中で、国民救援会、新宿区労連、全印総連などで、様々な方々と出会い、熱心に活動しました。
国民救援会で山中事件に携わった時には、現地調査に2度伺い、裁判の傍聴や集会の参加、霜上則男さんのご家族との対話など、様々な面において関わらせていただきました。霜上さんのご両親や、則男さんご本人から毎年年賀状をいただくたびに、霜上さんについて、また、山中事件や救援会の仲間について妻から話を聞けたことが、家族として大切な思い出になっています。
国民救援会や新宿区労連では、「山の会」にも参加させていただきました。高校時代にワンダーフォーゲル部に所属し、山の魅力を知った妻は、救援会の仲間と各地へ登山に行くことを心より楽しんでいました。次女が3歳の時には、救援会の仲間とともに尾瀬に連れて行ってもらい、時折おんぶしてもらいながら尾瀬の木道を歩いたことが思い出になっているようです。
2011年に大きな病気が見つかり、3月11日、あの東日本大震災の当日が手術の予定でした。電車がストップするなどの混乱の中、翌週に手術がありました。腫瘍摘出後、抗がん剤ではなく、漢方での治療を続け、2019年の夏前まで、元気に日常生活を送ることができました。その間、地元板橋で、党活動、新婦人、コーラス、手話、ヨガ、太極拳、ジムに通うなど、地域の仲間に恵まれて、趣味を広げました。
光陽メディアを退職後も、OBのみんなで旅行を重ねたり、新宿医労連の仲間と沖縄や奄美大島などへ、平和運動の一環で、夫婦で何度も出かけられたりしたことも貴重な時間でした。
2015年の春には、長女が板橋区議会議員に立候補することになりました。筆まめな妻は、旧友や知人、親戚などにお手紙を書き、応援をお願いしました。同じ板橋で活動を共にし、社会変革に向けて娘と同じ思いをもって活動できたこと、また、娘の奮闘を近くで見守ることで元気をもらっていました。2019年、長女の二度目の選挙の時も全員当選を目指して元気に活動しました
選挙後、体調がすぐれない日が続きましたが、秋には一時回復しました。しかし、コロナ禍の2020年4月中旬、体調悪化により、2か月弱の入院生活がありました。コロナ禍で面会できないもどかしさを感じていましたので、退院後は、家族で旅行に行くことができたことは、大切な思い出になりました。
妻・静江は、病気になった後、食事や運動に気を遣い、元気な日常を一日でも長く続けられるよう、努力している姿が強く印象に残っています。最期まで頑張り抜いた妻を誇りに思うとともに、妻が望み続けた「よりよい社会、平和への願い」を胸に、元気に活動を続けていきたいと思っています。
これまでお世話になった皆様、本日の合葬追悼会をご準備いただきました国民救援会をはじめ、関係者の皆様に心から御礼を申し上げまして、遺族代表の挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。

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