子どものころ戦争があった

先輩教員が「子どものころの戦争を語る」集いがありました。5月23日はその2回目。1回目は参加できなかったので、会場まで出かけていきました。最後まで参加できなかったのですが、子どもの頃の疎開の話は大変なことだったと改めて感じました。

洞井外美枝さんのお話

終戦は小岩小の1年生の時。小岩は戦争の空襲体験はなかった。昭和19年幼稚園の友人と撮った写真は防災頭巾を身に付けていた。警戒警報が鳴るとすぐ家に帰る生活。幼稚園が閉園となり、昭和19年10月~昭和20年2月まで京都の親せきに行っていた。小学校入学のために小岩に戻ってきた。3月10日は空が真っ赤だった。その日は庭の防空壕に入って過ごした。1年生になると鶴岡のあつみ温泉渥美屋という旅館に子どもだけ40人くらいで疎開。先生2人と寮母さん1人。一階は女子で二階は男子。夜中の10時~11時に起こされて、布団のなかのノミ取りをする。布団をめくるとノミが飛ぶ。1週間にお風呂は1~2回。石鹸はない。

疎開の状況が大変なことがノミ取りの一例でよくわかりました。食べるものも少なく、親元を離れた環境で過ごしたことは一生忘れられない体験となっていますね。

遠山元子さんのお話

小学校入学は満州のチチハル。校舎は赤レンガの立派なもの。父は農地開発公社で測量・設計製図。社宅に住んでいた。チチハルの前は朝鮮に一年いた。社宅近くの川が氷その上を車が走る。-32度。オンドル(床暖房)を使用。チチハルは少し都会で、神社と忠霊塔があり、その前を通ると最敬礼をしていた。夕日がきれい。校庭はスケート場に。4年生になると新京に移った。大きな建物がいっぱいあった。野菜売りに来たおじさんに「満人が来たよ」と言ったら、「中国人だ」と怒られ母が謝っていた。それで、日本が負けたことがよくわかった。戦争に負けて、中国の子どもの学校と日本人の赤レンガの学校と交換した。中国人の学校は今にも壊れそうだった。ロシアの兵隊が来た時に女の人もいるんだなと思った。社宅の周りは鉄条網で張り巡らされた。ロシア兵が来たら、男性が対応し、女子どもは地下に隠れた。日本の敗戦のあと、中国は内戦となり、引き上げは小は21年8月だった。おばさんが悲しそうに夕日を眺めていた姿が忘れられない。

満州で仕事をしていたことで、お母さんの対応はとても大事だったと感じました。多くの犠牲を払った戦争は絶対やってはいけない。憲法9条を守る大切さを訴え続けていきたいです。