祝!日本共産党の100年

1922年、7月15日、日本共産党が結成されてから、100年の歴史を重ねました。私が日本共産党に出会ったのは、1967年大学1年の時です。国立大学なら行ってもよいという両親に受験勉強を頑張って大学の教育学部に入学したことが私の人生を決めたことになります。1968年に日本共産党に入って、「子どもたちに平和で豊かな未来を、民主的な主権者教育を」と活動してきました。

私は、栃木県の佐野市の生まれです。足尾鉱毒事件で有名な渡良瀬川のほとりで商家の長女として生まれ、私が生まれたときはなんと14人家族。明治生まれの祖母は、テレビのニュースをみながら私にいつも言いました。「昔、田中正造というえらい政治家がいた。いまの政治家は自分のふところをふやすことばかりだが、田中正造は、自分の財産をなげうって、足尾鉱毒事件の解決のためにがんばった。死んだ時は、づた袋に火打石だけしか入っていなかった。たいしたもんだ」と。田中正造が息を引き取ったのが、大正2年。最後に訪問した庭野さんは、私の実家から500m位のところで、村はずれの雲龍寺(館林市)で亡くなりましたから、当時の村の中で大きな話題になったことがわかります。この田中正造のような先人の闘いを受け継ぎ日本共産党が誕生したことを歴史の中でとらえると、日本共産党誕生の時から平和と民主主義、自由と平等、社会進歩を掲げたのもよくわかります。

党創立100周年にあたっての志位委員長の談話「日本共産党の歴史は今に生きる力を発揮している」であげた4つの点を紹介します。

第一は、日本国憲法に実った戦前のたたかいー「翼賛政治」の危険のもとで今に生きる力です。日本の政党の中で戦前戦後を一つの名前で通している政党は日本共産党だけです。太平洋戦争に向かう中でほかの党は自ら解散し「大政翼賛会」に合流し侵略戦争を進める立場に立った。戦後は名前を変えざるを得なかった。暗い時代に命がけで国民主権と反戦平和の旗を掲げてたたかった共産党の主張は、戦後の日本国憲法に「政府の行為」によって戦争を引き起こしたことへの反省と国民主権が明記されたことによって実りました。

第二は、どんな国であれ覇権主義を許さないたたかいです。1950年、旧ソ連のスターリンなどによって乱暴な日本共産党への干渉が行われ、党が分裂する事態になった時、日本共産党は自主独立路線ー自らの国の社会進歩の運動の進路は、自らの頭で考える、どんな大国でも干渉や覇権は許さないという路線を確立しました。1960年代には旧ソ連と中国・毛沢東派の双方から無法な覇権主義の干渉が行われた時もきっぱりはねのけ、干渉の誤りを認めさせました。1991年ソ連共産党の解体に「もろ手をあげて歓迎する」と発表。

第三は、国民の共同の力で社会変革を進めるという立場です。1960年の日米安保条約改定に反対する国民的大闘争をへて、1961年に採択された党綱領は、選挙による国民多数の合意で社会変革を進めること、社会の発展のすべての段階で、国民の統一戦線で社会変革を進めることを大方針にしました。この方針に基づく奮闘で、1960年~70年代には東京、大阪、京都など全国各地に革新自治体が広がり、一時期は日本の総人口の43%が革新自治体の下で暮らすまでになりました。この流れを断ち切ったのが1980年の「社公合意」の共産党排除でした。この後、社会進歩を求める団体と共同する革新懇運動に粘り強くとりくみました。2015年以来市民と野党の共闘という新しい運動が開始され、重要な成果もあげました。日本の政治を変えるには共闘の道しかありません。

第四は、日本共産党が、社会変革の大目標として、社会主義・共産主義の実現を掲げ続けてきたということです。人類の歴史を資本主義で終わりとする立場に立たず、資本主義を乗り越えて、社会主義・共産主義をめざすことを大目標として掲げてきました。人類の歴史の中で発達した資本主義国から社会主義への道へ踏み出した経験はまだ存在していません。特別の困難性と壮大な可能性を持った新しい開拓と探求の事業です。日本共産党という党名は、わが党の大目標と固く結びついた名前です。この名前を高く掲げて、新たな躍進をかちとるべく奮闘します。

長文をお読みいただき、ありがとうございました。